用地補償

 一般に公共建設事業には、建設による便益と建設による損失とが伴います。便益については、ここで深く立ち入らないことにします。さて、損失の代表的なものは、従前、ある目的に使われていた土地が、その目的のために使用できなくなることです。また、公共建設事業には、建設工事費が必ず必要です。
 建設による便益と損失、それに建設工事費の三つの要因を使ってて、次のような不等式をつくることができます。

 (1) 建設による便益=建設工事費+建設による損失

 (1)式は、建設起業者がその事業を行なうために必要な経済的条件を示しています。用地補償費が、建設による損失をちょうど補填する額であったとすると、(1)式は、つぎの(2)式のような建設事業における基本的な経済指標式になります。

 (2) 建設による便益=建設工事費+用地補償費=建設のための事業費

 さて、(1)式の右辺は、事業を行なうためのいわばコストであり、左辺は、いねば粗収入です。そこで、左辺から右辺を差し引いたものを、一般の使い方とはやや異なりますが、開発利益とよぶことにしましょう。そうすると次式が成立します。

 (3) 開発利益=建設による便益-(建設工事費+建設による損失)

 実は、(3)式であらわされる開発利益をだれが取得するのか、その帰属を考えることが、補償の本質を理解する鍵になるのです。

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 資本主義経済の最も基本的な特徴は、私有財産権を認めていることです。そのため資本主義経済社会では、土地のようにその供給が制限されている商品の価格は、買手側の支払い可能限度額に近い額に決定される性質をもっています。
 たとえば、繁華街の一角に、たまたま残されたあき地があり、現在は雑草の繁るにまかせているとしましょう。この空地を買いたいと思う人が、その土地に荒地の値をつけたとしたら笑われるだけでしょう。買手は、その土地を繁華街にふさわしい形、たとえばガソリンスタンドで利用する場合にえられる利益の大部分を吐き出すような価格でなければ、その土地を買うことができません。
 この場合、その土地にガソリンスタンドをつくろうと考えたのは買手であり、整地をしたりガソリンスタンドを建築するのも買手です。それにもかかわらず、ただそこに土地をもっていたというだけで、売手はガソリンスタンドの経営によってえられる利益の大部分を、あらかじめ取得することができるのです。これが、資本主義経済社会における私有財産権の意味なのです。
 一般に、資本主義社会における土地の価格は、その土地が従前どのような形で利用されていたかにかかわりなく、買収後に可能となる最も高度な利用形態によって規定されています。つまり土地は、開発利益を吸着してしまう性質をもっているといってもよいでしょう。
 私有財産権、公共の福祉、国の収用権、損失補償の四つの概念は互に関連し合う、いねばセットの概念です。したがって、私有財産制の確立していない封建制社会や私有財産制の止揚された社会主義社会では、損失補償なる概念は意味をもちません。また損失補償なる概念は、資本主義自体の変質、とくに経済活動における国家の役割の増大に対応して変化してきました。
 土地が、開発利益を吸着してしまう性質があるからといって、公共建設事業の場合に、(3)式左辺の開発利益のすべてを事業用地の所有者が取得してしまったらどうなるでしょうか。起業者は、事業用地の所有者に対して、建設による損失を補填するだけでなく、開発利益をも配分してしまうのですから、事業費は増大し、建設による便益と事業費とは等しくなって、事業を行なう意味はほとんど失われてしまいます。
 公共建設事業の開発利益は、不特定多数の国民一般が享受すべきものであり、特定少数の土地所有者が一方的に取得すべきものではありません。この考え方が、公共福祉の私有財産権に対する優先の思想に発展していくのです。
 たとえば、前述の事例で、空地を市が買収して、そこにガソリンスタンドではなく児童公園をつくることになったとしましょう。その場合、児童公園をつくることによってえられる便益の大きさが、ガソリンスタンドをつくることによってえられる便益よりたとえ大きかったとしても、市は土地所有者に対して、一定金額を支払えばよく、開発利益は、不特定多数の付近住民によって享受されます。
 このように公共の福祉を前提として、私有財産権に制限を加えることを是認するとしても、つぎには、その制限の加え方が問題になります。上の例についていえば、一定の金額とは、ガソリンスタンドをつくると仮定した場合の支払い可能限度額、いわゆる時価なのでしょうか。それともまったく無償にしてしまってもいいのでしょうか。
 現代的な意味での正当な補償という言葉がはじめてあらわれるのは一七八九年のフランス人権宣言です。それはつぎのようなものでした。
 「所有権は、一つの神聖かつ不可侵の権利であるから、法律により確認された公の必要が明白にそれを要求する場合で、かつ事前の正当な補償という条件のもとでなければ、何人もこれを奪われることがない。」
 ここでいわれる所有権は、ルイー四世の有名な「朕が国家である」の言葉に象徴される絶対主義時代の国王の権力に対する抵抗であり、資本主義を確立する礎石としての意味をもっていました。したがって、ここでいう正当な補償の規定は、個人の所有権を積極的に擁護するためのものであったのです。
 しかし、資本主義の生産規模が次第に拡大し、とくに鉄道、道路、運河などの建設が活発に行なわれるようになると、正当な補償にはむしろ私有財産権を制限するための意味が含められるようになりました。たとえば、一八四五年にイギリスにおいてはじめて土地収用権に関する一般的な法律が定められました。
 また、資本主義の成立が遅れ、資本主義の初期から国家の果たす役割が大きかったドイツやわが国では、個人の所有権の不可侵性の認識は薄く、たとえば戦前の大日本帝国憲法では、「臣民ノ所有権」と「公益ノ為必要ナル処分」とが並記されて、損失補償に関する規定を欠いていました。
 現行の日本国憲法では、その第二九条で、「財産権は、これを侵してはならない。財産権の内容は、公共の福祉に適合するやうに法律でこれを定める。私有財産は正当な補償の下に、これを公共のために用ひることができる」と規定しています。この規定が、フランス人権宣言におけるような私有財産権の全面的な肯定を意味するものでないことは明らかですし、同様に私有財産制の全面的な否定を許容するものでないことも明らかです。そこで問題は、正当な補償とはなにかという点にしぼられてくるわけです。
 正当な補償の解釈をめぐって、わが国の公法学界には大きく二つの学説があり、一つは完全補償説とよばれ、いま一つは相当補償説とよばれています。前者の内容は比較的明確で、公共の福祉のために財産権が制限される場合には、その補償は、制限によって生ずる損失を完全に補填するものでなければならないというものです。
 これに対して相当補償説の相当の内容は必ずしも明白ではありません。ただ、相当なとは、必ずしも常に完全である必要がないという点では、多くの論者が一致しています。
 この点に関する著者自身の考え方を示せばつぎのとおりです。
 すなわち、完全補償説には、決定的な論理的欠陥があるように思われるのです。といいますのは、損失を完全に補填するという場合、損失を受ける側の主観にもとづく損失のすべてを補填することは事実上不可能だからです。たとえば、ダムの水没者にとっては、土地は経済的な価値物であると同時に、先祖の遺産としての心情的な価値ももっており、これの喪失による損失を完全に補填するためには、水没する土地そのものをもってこなければならないからです。なんらかの代替物によって損失を補填できるとする考え方は、すでに、損失を被る側の主観を離れた考え方というべきです。
 もしも、損失を被る者の主観を尺度とするのではなく、なんらかの別の尺度によって、補償されるべき損失の大きさをはかろうとするならば、その場合には、その尺度によってはかられた損失が、たとえ完全に補填されたとしても、それは完全補償とはいえません。なぜならば、尺度が設定された時点で、すでに、補償に値する損失と値しない損失との区分が実質上なされており、したがって、これはまさしく相当補償だからです。
 したがって、相当補償か完全補償かという問題の立て方自体が、まったく不毛だと思うのです。大切なことは、どのような損失は補償される必要があり、どのような損失は補償の必要がないかを具体的に明らかにすることです。そして、補償される必要のある損失を完全に補填するような補償をこそ、正当な補償というべきではないでしょうか。

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